越前漆器の誕生と伝統
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越前漆器、その誕生と1500年の伝統
越前漆器
越前漆器の起こりは、約1500年の昔にさかのぼるといわれています。古墳時代の末期にあたる6世紀。第26代継体天皇がまだ皇子のころ、こわれた冠の修理を片山集落(現在の福井県鯖江市片山町)の塗師に命じられました。
塗師は、冠を漆で修理するとともに黒塗りの椀を献上したところ、皇子はその見事なできばえにいたく感動し、片山集落で漆器づくりを行うよう奨励しました。これが今日の越前漆器の始まりと伝えられています。
また、越前には古くからたくさんの漆かきがいました。漆かきとは、漆の木にかき傷をつけながら漆液を採集する職人のことで、最盛期には全国の漆かきの半数を占めたといわれています。日光東照宮を建てるとき、徳川幕府は大量の漆液の採集を越前に命じたとか。越前の漆かきが、どんなに高く評価されていたかが分かります。こうした漆かきの存在も越前漆器の産地形成に大きな役割を果たしています。
片山漆器神社 (祭神 惟喬(これたか)親王)
片山漆器神社の祭神 惟喬親王は、第55代文(もん)徳(とく)天皇(在位850~858)の第一皇子でしたが、皇位継承に敗れ、近江国愛(え)智(ち)郡(ぐん)小椋(おぐら)の里(現在の滋賀県東近江市)に隠棲(いんせい)されました。貞(じょう)観(がん)年間(9世紀後半)、親王が周辺の杣人(そまびと)に轆轤(ろくろ)で木を加工する技術を伝授し、椀や盆などの製作を奨励したことから、この地に「木地師(きじし)(轆轤師)」と呼ばれる職人が誕生したと云われています。親王を「木地師の祖」として、厚く崇敬する木地師たちは近江を根元地として全国の山々を渡り歩き、時の権力者からの木地技術の免許状を拝領して稼業することを誇りとしていました。
越前国においても大野・勝山、今庄や池田・鞍谷の山深い地に良材を求めて近江からの木地師集団が移住して来ると、この片山の地に古くから伝わる漆掻き技術と轆轤による加工技術とが結びつき、現在に至る漆器業が誕生したと云われています。伝承によれば、親王の御遺徳を偲んだ片山の職人たちは、全国の木地師を束ねる近江国・筒井神社(筒井(つつい)公文所(くもんじょ))から授かった尊き由緒書(ゆいしょがき)を安置し、承久(じょうきゅう)3年(1221)に「椀(わん)神様(がみさま)」として漆器神社を創建したとされます。今でも筒井神社には、村々を巡回した木地師の記録である「氏子駈帳(うじこかりちょう)」が残されており、片山の椀師や塗物師の記録が確認できます。
なお、本社は当初、片山八幡神社(祭神 第15代応神天皇 270~310)内に併祀(へいし)されていましたが、江戸時代の正保(しょうほう)元年(1644)に独立した漆器神社として同社境内に建立されました。
昭和34年9月26日の伊勢湾台風の影響で社殿が倒壊する災害を機に、昭和39年10月に漆器神社が再建され現在に至ります。
所蔵の木地屋文書(写し)
一、朱雀天皇 綸旨写 承(じょう)平5年(935)11月9日
一、正親町天皇 綸旨写 元亀3年(1572)10月11日
一、丹羽長秀諸役免許状写 天正11年(1583)6月 日
一、増田右衛門諸役免許状写 天正15年(1587)11月15日
一、惟喬親王縁起書写 承久2年(1220)9月12日
一大漆器産地として
片山地区でつくられる漆椀は片山椀と呼ばれ、室町のころから報恩講などの仏事に盛んに使われるようになりました。
また、江戸末期になると京都から蒔絵師を招き、蒔絵の技術を導入。輪島からは沈金の技法も取り入れ、越前漆器はそれまでの堅牢さに加え、華麗な装飾性を帯びることになりました。
明治のなかば、越前漆器は大きな転換期を迎えます。それまで、製品といえば丸物と呼ばれる椀類がほとんどだったのが、角物と呼ばれる膳類などもつくるようになったのです。以後、重箱、手箱、盆、菓子箱、花器など一挙に製品群は多様化。生産エリアも河和田地区全体に広がり、そこで生産される漆器は、河和田塗りと呼ばれるようになりました。
さらにこうした多様な製品群を背景に、量販体制を整備しながら、旅館やレストランなどで使う業務用漆器の販路開拓に乗り出したところ、これが見事に成功。名古屋、大阪などの大消費地へ進出を果たし、河和田塗りは、いつしか越前漆器として広く愛用されるようになったのです。